若い頃の整い過ぎるくらいのハンサム度は、他に並ぶ人がいない。
ただの美形俳優というだけでなく、
ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「山猫」(1963)では、イタリア貴族の若者タンクレディを演じ、その演技で世界的な評価を受けている。
また、ドロンは様々な自ジャンルの映画に出演し、シリアスなドラマからスリラー、アクション映画、そして人々の心に残る恋愛映画と、幅広く演じていた。
ドロンって、フランスだけでなく国際的な映画で活躍していたんだ。
多分、私が、
リアルタイムで、生きているアランドロンが活躍していた
”アランドロンの旬のころ”
を知っている”最後の世代”になるのだと思うのだ。
だから彼について語らずにはいられない。
だいたい映画界で
”アランドロン”と”トムクルーズ”を抜きにして、
俳優論を語るなんて、
モグリだと見なされる(笑)。
本国フランスでは、ジャン=ポール・ベルモンドの方が人気が上だと知っていても、
日本人は断然”アランドロンの方が大好き”なんだ。
「〜アランドロンと僕を比べて、陽気に笑う君が好きだよ」
と歌っていましたっけ。(♪赤いハイヒール ’70年代)
若い頃のヤンチャAlein Delon(アランドロン)
ドロンは別格だったね。ほとんど悪役が多かったのだが、どこか寂しげで憎めない奴、男性側はそんな彼に惚れ込んだんだろうね。
仕事先をクビになった、転校先の素行悪などの彼の武勇伝は数知れず。
悪役なのに人気が爆発した稀有なスター
ハリウッド映画のスターたちも勿論人気があったけれど、当時日本全国誰もが知るほど人気があったのはアランドロンだ。
映画の世界には過ぎていく時代それぞれの記憶に残るスターが出現する、
アランドロン彼こそまさにキラ星のごとく輝いていたスターだ。
ドロンが演じたのは金持ち息子を殺してその恋人も奪うトム・リプリー。
ふつう、悪役俳優が人気スターになるのは難しいが(マッツミケルセンなど少数を除いて!?)、
そんなハンデを超えて彼は圧倒的な人気をものにした。
「お嬢さんお手柔らかに!」(1959)に続いて「太陽がいっぱい」が公開されたため、違う角度から人気の後押しをしたのかもしれないね。
そうしたプラス効果も味方につけてしまっていたアランドロンは、
まさに”時代の寵児”だったんだろうね。
作品も恋にもノッテるアランドロン
巨匠クレマン監督作品の後にドロンが出演したのは、
イタリア映画の名匠ルキノ・ヴィスコンティ監督がイタリア南部の貧しい育ちでボクサーを目指して都会へ出た青年を描く映画「若者のすべて」(1960)。
当時のドロンは映画「恋ひとすじに」(1958)で共演したロミー・シュナイダーと婚約していたが、やがて破棄して無名女優ナタリー・バルテルミー(のちのナタリードロン)と1964年8月に結婚(←詳しくはコチラをクリックしてね)
その時のことを長年ヴィスコンティの脚本を書いてきたスーゾ・チェッキ・ダミーコ女史によれば、
「アランはとても誠実な人。ヴィスコンティは許したのよ。」と言っていたって。
ドロンが晩年”絵画”に興味を持ち、知的に磨かれていたと伝えられるのは、ヴィスコンティ監督と関わった影響が大きいと言われているのだ。
5本のハリウッド映画に出演したアランドロンは32歳
米国行きの前に念願だった大先輩ジャンギャバンとの共演が実現したのは映画「地下室のメロディー」(1963)は、老ギャングと金持ちを装った若者が挑んだ現金強奪計画を描いたモノクロ作品。
だけど、彼こそ陽光輝くカリフォルニアより、灰色に曇ったヨーロッパの空がよく似合うと知ったのは5本の映画主演作を撮り終えた頃。
その後、フランス本国に住むところも決めないまま帰国してしまった。
メジャー露出が激しいハリウッド作品が、若々しい旬のアランドロンを輝かせる。まず出演したのはリノ・バンチュラと瑞々しく輝くジョアンナ・シムカスと共演したロベール・アンリコ監督の映画「冒険者たち」(1967)。この時のドロンが32歳。
トレンチコートの殺し屋役がよく似合ったジャン=ピエール・メルヴィル監督の映画「サムライ」(1967)。
ハリウッドの個性の強い脇役スターであったチャールズ・ブロンソン共演の犯罪サスペンス映画「さらば友よ」(1968)
1970年代はアランドロンの絶頂期
大ベテランの名作に出演し続けたアランドロンと
若い監督(ジャン=リュック・ゴダール監督作「勝手にしやがれ」)や大衆的な作家と組んできたジャン=ポール・ベルモンドという、
二人の人気者俳優が共演した「ボルサリーノ」(1970)がドロン制作により実現して、この作品が大ヒット!
その翌年にはチャールズ・ブロンソンに、日本の俳優・三船敏郎が加わった大型西部劇「レッド・サン」(1971)が公開されている。
私生活はスキャンダル続き
1970年代を迎えたこの頃の仕事は快調だったが、私生活には多々問題があった。
ナタリーがドロンの反対を押し切り、名前を”ナタリー・ドロン”に変えて本格的に女優業を開始。そこで離婚になり、彼は映画の共演で出会ったミレーユ・ダルクと暮らし始めている。
同じ頃、以前にナタリーとドロンのボディガードをしていたマルコヴィッチという男が殺され、ドロンが殺人容疑で取り調べを受ける、という事件が持ち上がった。
この容疑は間も無く晴れたが、事態はフランス政財界を巻き込む大事件へと発展、ドロンの暗黒街とのつながりも発覚したが、
彼はこの苦境を乗り越え、自らの制作会社アデル・プロダクションを成功させ、
1981年には「危険なささやき」で監督デビューしている。ドロン46歳
セザール賞と名誉パルムドール
アランドロンは、長いキャリアを通じて多くの賞を受賞している。
特に1995年(ドロン60歳)にはフランス映画界の最高栄誉である
セザール賞を受賞した。
また、2019年(ドロン81歳)には、カンヌ国際映画祭で
「名誉パルムドール」を受賞している。

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