監督であるフランシス・フォード・コッポラは、舞台で無名のアルパチーノの演技を目の当たりにした瞬間、その奥に潜む凄まじい表現力を見抜いたという。
ここでは29歳で遅咲き映画デビューするまでのアルパチーノの若い頃の話をすることにしよう!
幼い頃のアルパチーノ少年
両親は早くに離婚し、母親と祖父に育てられながらも、父親を失った喪失感と捨てられたような孤独感は消えることなく心の中に残り続けていたそうな。
そうした複雑な感情はやがて彼を問題児へと変えていく。
学校に通うようになった頃には暴力事件を起こしたり、警察に補導されたりと様々な問題行動が目立つようになっていったという。
そのため教師たちからは厄介者として扱われ、周囲の生徒たちも彼に敵意の視線を向けるばかりだったらしい。
そんな中、たった一人だけ彼を見捨てない教師は現れるのだ。ブレンチ・ロードスタインという演劇の先生だった。彼女はある日、授業中に本を朗読するアルパチーノの声を耳にし、その抑揚や表現力に演技の才能を見抜いた。
「この子は問題児なんかじゃあない」
「舞台に立つために生まれてきたこだわ」
その圧倒的な演技に、これまで見下していた教師たちでも息を呑み、彼の才能を認めざるを得なかった。
「アルは評判の子供だったよ。痩せていて身なりも良くないが、彼の話ぶりに人々は熱心に聞き入っていた。この頃から”カリスマ性”があったんだね」と。
演技への情熱が膨らむ
この日を境に彼の生活は変わっていく。
初めて自分を肯定してくれる大人が現れたことで、演技への情熱が大きく膨らみ、荒れていた素行も少しずつ改善されていったのだと。
しかし、演技に情熱を注ぐほど母親の目はどこか冷やかさを増していったようだった。母親は彼の演技を目の当たりにしても、才能を誉めることは一切無かった。
それどころか俳優を目指していることを知ると、冷たい一言を浴びせた。
「俳優になれるのは選ばれた人間だけ。
貧しい家に生まれたアンタが目指す道じゃないよ。
今すぐ諦めなさい。」
その言葉はアルパチーノの胸に深く突き刺さった。初めて打ち込めるものを見つけたのに、その道を最も身近な存在から否定される。彼はこのまま演技の練習を続けるべきか真剣に悩むようになったのだった。
しばらくはそんな生活だった。でも常に挑戦する気持ちは持っていた。若いなりに真似をする才能は自然に持っていたんだ、とのちのインタビューでコメントしている。
苦悩の下積み時代から、やがて
24歳でアルパチーノはこの劇団から離れ、演劇学校に入学。演技だけでなく台本執筆や舞台演出も経験する。
そして1966年、26歳の時にアルパチーノは名門アクターズスタジオのテストに合格し、所属することになる。
(アクターズスタジオは当時、マーロンブランド、スティーブマックイーン、ジェームスディーン、ポールニューマンといった有名な俳優を輩出している名門俳優養成所であった)
最初は脇役ばかりだったが、徐々に主役級の配役が回ってくるようになり、この当時収入源だった本屋のセールスマンの仕事を辞めている。
ブラッドピットもそうであったように、20代後半で引っ掛かりが無いと俳優キャリアとしてキビシイね。
29歳で、いよいよ映画出演オファーが届く
1968年、28歳の時アルパチーノは「ブロンクスを求めるインディアン」という舞台でオフブロードウェイで演劇界のオスカーとも言える最優秀男優賞「オビー賞」を獲得。
そして1969年、ついに映画への出演オファーがあるパチーノの元へ舞い込んだ。
「ナタリーの朝」という作品で脇役であるが29歳で映画デビューを果たすのだった。
1971年には「哀しみの街かど」という作品で、アルパチーノは主演を果たした。
今となって言えるのは、👇
もし彼があんなに飲んだりタバコ吸ったりしなかったら、70年代のアルパチーノは神レベルに”美しい男”だった。
ジョージ・クルーニーみたいに良い感じに年を重ねてくれると期待してたんだけど、80年代には見た目がずいぶん老けちゃったなあ。
最近のアル・パチーノは面白い感じで年を取ったよね。全然違う人みたいになった。
アルパチーノの役の振れ幅は案外狭いようだ。そのチョイスした役柄で、ハマった時はどこまでも突き抜ける破壊力を持ったパフォーマンスを発揮する”稀有な才能の俳優さん”なのである。

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