アランドロン太陽がいっぱいは後編でしのび逢いが前編だった!

アランドロン主演映画太陽がいっぱい」(1960)は何度もニュープリントとして現代もロードショー公開され、その度に劇場が満席になるというレジェンド的人気の名作なのである。
私とかは、誰もがすでに見た映画という思いがあったので、
今さら高い入場料を払って見に来る人がいるのかなぁと危惧したが、なんのこたぁない老若男女に大人気でそれこそ私の取り越し苦労に終わった。
この作品を、私見で言うなら👇

”何もかも欲しがるようでいて、
実は何も欲しいものが見つからないでいる青年の倦怠を、
この映画は見事に描いている”

っていう感じ。
さあ、この映画には”前振り”のような作品と先輩俳優が実はあって、そのつながりからアランドロン主演作品の一つとして映画「太陽がいっぱい」を見てみると面白いと思うよ。
では、掘り下げて見ていこうぜ!

クラシック・スタンダード映画としてのストーリーに見る男性本能

 ・・・男というのは青年でなくても多かれ少なかれこの映画の主人公トム・リプリーのようなところ(本能)があると、中年になってやっと私も分かるようになった(笑)
 それがもしかしたら
この映画が人々の共感を得ている一因なのか、と。劇場公開した比較的初期にこの映画を観た私は、
”青年の野望と挫折”というふうにこのストーリーを読んでいた。
しかし、歳いった私が再見したところ”男の本能的な孤独”についての映画なのだと気づかされた。男というのは、金も名声も女も家庭も、あらゆるものを手中に収めたがるものだが、それは子供が玩具を欲しがるようなもので手中にした時は、すでにその欲望に飽きているのである
ひょっとしたら、これは女にはない生理なのではと思うのだが、男というのは結局、自分に必要なものが何であるかわからないまま人生を終える生き物ではあるまいかと気づかさせてくれる作品なのである。

男の悲しいサガを描くフランス映画

58歳になったアランドロンは「カサノヴァ最後の恋」(1992)で、人生の無情に直面するドンファンを演じて見せたのだが、
このカサノヴァなどはまさに、欲しいものを見失ってしまった男の典型であろう

女にモテるのをいいことに世界を股にかけて女遊びにふけったカサノヴァだが、真に女好きであったとは到底思えない節がある。
 「太陽がいっぱい」のトムも、彼に殺されるフィリップも女を欲しがりながら、女について殆ど子供のように無知である。ただひたすら自分のものにしたがるというだけで、愛したり理解したりしようという気持ちはカケラも無かったのだから。

しかしこれが”男の悲しいサガ”なのである。
(☝️ジュードロウ主演の映画「リプリー」にもこのことが描かれていた)←詳しくはコチラをクリックしてね

 こういう男の実像を見栄えのしない男優が演じてはリアリズムには叶っても、映画としての美的トーンは落ちてしまう。

その点、甘くやるせない美貌と雰囲気のイケメン俳優が演じれば、その悲劇はまるで薔薇の花のように甘く香りたち、観客の心をとろけさせるものとなる。
 そこでまさに”ドロン登場”というわけだ。

・・・そもそもフランス映画というものは本質的に女を描く映画であり、男の実像にはトンと無関心だから、この手のイケメン俳優は出番が少なかった(苦笑)当時のフランス映画界でアランドロンこそ、冷厳で適役といえるのだが。

アランドロンにつながる 美貌の先駆者ジェラールフィリップ主演映画「しのび逢い」

1940年代後半から50年代にかけて、フランス映画界でアランドロンと双璧と謳われた美貌の持ち主である青年俳優がいた。彼の名はジェラール・フィリップ。(←若干ではあるがフィリップの方が俳優として先輩にあたる)

映画「太陽がいっぱい」(1960)を撮ったルネ・クレマン監督が、この映画に先駆けて撮ったドンファン映画「しのび逢い」(1953)の主人公を演じたのが
ジェラールフィリップであった。

 映画「しのび逢い」でフィリップが演じた若き女たらしアンドレ・リボアの
虚無と孤独は、「太陽がいっぱい」のアランドロン演じた主人公トム・リプリーのそれに見事に繋がっていた
夢のような女を射止めた後も、新しい女に手を出して、次々に自分のものにしてしまうリボアは、まさに自分の欲しいものを見失っている男である。

女からすればリボアのような男は間違いなく敵なのであるが、男よりずっと大人である女たちは、この男の抱えている”どうしようもない喪失感&絶望感”をいたわりの目で接することができていた

・・・いつの世も、恋愛において女の方が一枚上手ということか!?

リボアを演じたジェラールフィリップの”したたかだけれど、どこか痛々しいイケメンぶり”は、一般的に見れば”とんでもない男”というよりは、

 ”いたいけな男”として当時の女性客には映ったようだった。

フランス映画の怒涛の潮流の中で、ドロンとフィリップは?

ルネクレマン監督がフィリップと組んだのは、「しのび逢い」一作だけだったが、この作品を前編とするなら、その後編というような7年後の「太陽がいっぱい」でアランドロンという彼の後継者を見つけたのである。

・・・「太陽がいっぱい」の公開と同時期にフランス映画界を席巻した
”怒涛の激流・ヌーヴェルヴァーグ”は、フィリップやドロンやクレマン監督の
甘き絶望”を過去のものへ押しやってしまった。

 どこにでもいる人間の身も蓋もない絶望を描くヌーヴェルヴァーグにとって、選ばれしもののナルシスティックな絶望を表現する美貌の青年や華麗な語り口など、時代の流れに任せて強力に押し流してしまえる、”どうでもいい事”だったんだね

参考までに、ジェラールフィリップのプロフィール

Gerard Philipe
1922年フランス・カンヌ生まれ。
法律学校に学ぶが第二次世界大戦のため、南仏に来ていたいたマルクアレグレ監督ら映画人に接し、演劇に興味を持つ。
1942年初舞台のあと、43年に映画デビュー。
その年の舞台「ソドムとゴモラ」の天使役で大成功を収めたにも関わらず、コンセルヴァトワールに入学。翌年、学年総合2番の成績で卒業している(←美貌に加えてあったまいいんだね)
映画「肉体の悪魔」(1947)の人妻に恋する高校生役でイケメンスターとして人気が出たものの、それからわずか7年後に心臓麻痺のため36歳の若さで他界されている。

・・・嗚呼、美人薄命(涙)

 

 

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