ジョントラボルタ映画 演技よりダンスでスターになった映画俳優

「アメリカンジゴロ」「愛と青春の旅立ち」といえば、リチャードギアの代表作であるが、実はこれらの名だたる映画は最初ジョントラボルタに出演依頼を送られて、彼が断ったオファーを、リチャードギアが代役で引き受けて、成功させて後に出世作となった作品なのである。

当時”トラボルタが断れば、ギアが出世する”とまで言われていた。それほどまず最初にオファーが行くのは、トラボルタのところというのが通説だったらしい。

同じことが女優のキャスティングの場合にも当時、まずメグライアンのところに役のオファーが行き、断ればジュリアロバーツが役を得て成功する、という図式が成立していたというのだ。

さながら2020年代現代で言うなら、まずレオナルド・デ・カプリオのところにオファーが行き、断れば代役の争奪戦が始まると言うのとキャスティング現場の事情は似ている。

映画「サタデーナイトフィーバー」公開後人気沸騰した俳優、それくらいジョン・トラボルタの新作への出演は熱望されていたのである。

1985年には、”英国ダイアナ元妃まで魅了したジョントラボルタ”という俳優の、他の俳優とは違う魅力を、これから徳とお楽しみあれ!

プロフィール

John Travolta 米国ニュージャージー州イングルウッド 1954.2.18生誕 71歳

父親はイタリア系アメリカ人2世でタイヤ会社のセールスマン、母親はアイルランド系アメリカ人で演技講師という夫婦のもと、6人兄弟の末っ子として生まれた。

幼少よりダンス、演技を習っていた。5歳の時からタップダンスを習い始めた。

ニュージャージー州にあるドワイト・モロー高校を17歳で中退。その後、ニューヨークに移って1973年ブロードウェイの舞台に立つ。さらに、ロサンゼルスに移りTVシリーズ「WElcome Back, Kotter」にレギュラー出演するようになる。

ジョントラボルタの映画デビュー作は「魔鬼雨」(1975)であるが、本格的なデビューとなるのはシシースペイセク、ウィリアムカット共演、ホラー映画の名作「キャリー」(1976)である。この出演は22歳の時で、主人公キャリーの恐るべき力を誘発させ、惨劇を招くボタンを押したバカップルの片割れを熱演。その時のトボけたバカ男子ぶりが実にチャーミングに映っていた。

主な出演作

「キャリー」(1976)
「サタデーナイトフィーバー」(1977)
「グリース」(1978)
「アーバンカウボーイ」(1980)
「ステインアライブ」(1983)
「パルクフィクション」(1994)
「フェイス/オフ」(1997)

テレビ映画「プラスチックの中の青春」(1976)

実に珍しいことに、ジョントラボルタは ”演技よりダンスでスターになった俳優”である!

 映画「サタデーナイトフィーバー」をまずは全体を見て、映画のストーリーの中でのダンスシーンを見てみると、

トラボルタ演ずるトニーは少しぼんやりしたふうで、日々の仕事に本当に将来性を感じてるわけでもなく、つまらない仕事をしているのだけど、ディスコでは超クールで、ダンスフロアの王様になっている。

 服、体格、髪型、自信、性格、そしてダンスの動きの組み合わせが、彼を”超クール”に仕立てているのだ。

・・・私は、特にフロアーでのダンスに対しての、
周りをリードして見られているという”自信”に満ちたモーションこそが、他の俳優が演じていたらこんなに輝いてはいなかっただろうなと感じる、トラボルタ特有な”ヒーロー像”を構築しているのだと思う。

 当時は、観客も彼を同じように見ていたんだろうな。テクニックがどうのというより、 彼はすごくクールだったのだ。ダンスシーンは全体のほんの一部だったけど、それでもすごく良いダンスだって、あの時代には思われていたはずなのだ。

 ・・・キャラクターと映画の設定を考えると、彼のダンスはちょっと現実離れしたくらい洗練されていて、シーンに向けての練習の中で練られたものかもしれないと思われる。

映画「サタデーナイトフィーバー」(1977)は、ものスゴイ映画!

トラボルタが主演にキャスティングされたのは、俳優になったばかりの頃に披露したキラッ、キラッに輝くダンスシーンが関係者の目に留まったきっかけがあったからである。

この「サタデーナイトフィーバー」こそ、なんと制作費の68倍もの収益を生み出した大ヒット映画で、
前例のない若者文化まで巻き起こしたほどの”物凄い映画”だったのである。

〜僕たちも踊りに行こうよ! 行こうっ、行こうっ!

・・・当時「フィバる」などの週末にハジけるという意味の造語も流行りましたっけ。

”ディスコ”ダンス流行のきっかけとなる!

まさにあの有名な「ディスコ」のダンスが流行し始めたのは、この映画があったからなのである。
ジョン・トラボルタはこの映画で主演を務め、昼間は貧民街のペンキ屋で働きながら変わり映えのない毎日を過ごし、夜になるとディスコで華麗なダンスの腕を披露する19歳の青年を演じた。

・・・”キレッ、キレ”という言葉さえ無かった時代に、無駄のない”しなやかな身体”に上品な身のこなし。
現代で言うところの派手なバク転やブレイクダンスまがいのダンスバトルで披露するようなウルトラC難度の”ワザ”は無いとしても、皆が見て一緒に体を動かしてユルユルのヒップホップダンスを楽しんでいる感覚。それでいて時代背景が、”バブル経済”に向かっていく華麗で最先端のサブカルが飲み込んでしまう大らかさ。

トラボルタは映画俳優であるにも関わらず、ダンサーの忙しさとは違うキレのあるダンスを、臆することなく披露している。
この映画公開以前は、「薄っぺらで下品だ」とバカにされていた「ディスコ」と言うジャンルが、この映画の公開後からはあっという間に流行の最先端音楽の主流として生まれ変わり認知され、
夜になるとフレアーパンツを履いてディスコダンスを踊りにいく人が街中に溢れかえるほど大流行したのであった。

ある一つの音楽ジャンルを流行させた張本人が、歌手でもダンサーでもない映画俳優という点が、音楽史上記録に残る業績であったことは言うまでも無い。

ちなみにこの映画で初めて登場した曲の中には、日本でもかなり人気になった曲が沢山あるのだ。ビージーズの「How Deep Is Your Love」「Stayin’Alive」etc
これらの曲は全て、映画「サタデーナイトフィーバー」によって初めて世の中に公開された曲なのだ。名曲揃いのこの映画のオリジナルサウンドトラックは飛ぶように売れ、当時までのオリジナルサウンドトラック史上歴代1位という新記録を打ち立てたのだった。

さらに、この映画のポスターも伝説として残っており、今日までもディスコダンスといえば真っ先に思い浮かぶこの定番ポーズ(右手を空高く突き上げ、足を開き腰を捻る)を初めて作り出したのが、まさにジョントラボルタだったのだ。

実は、このポーズが作られた背景には面白い裏話があるのだ。
ポスター撮影当時、トラボルタは徹夜の撮影で疲れていた。しかし、カメラマンはポーズが気に入らないと言い続け、数時間以上撮影を終わらせてくれなかったのである。これに腹が立ったトラボルタが「クソ食らえ!」という気持ちで、一本の指を空に向かって伸ばし、足を大きく広げたまま怒った表情を浮かべたのだったが、これがポスターの最終バージョンに採用されたのだった。
撮影から3ヶ月後、ポスターを初めてみることになったトラボルタは、「なんでこれが・・・」
はっきりとあの時の最終ポーズが採用されているのの目にし、非常に驚いたのだそう「この映画はダメだ・・・」

このように伝説のポーズまで打ち出し大ヒットの主人公となったジョントラボルタは、わずか20代前半でアカデミー賞の主演男優賞候補まで上り詰め、一気に映画界の注目を浴びたのであった。

全盛期の扉を開けたばかりのトラボルタにガールフレンドの悲劇

しかし、全盛期の扉を開けたばかりの彼に信じられない悲劇が待ち構えていたのだった。

当時、ジョントラボルタには長年付き合っていた彼女がいた。俳優仲間だった女性で、1976年に出演したテレビドラマ「プラスチックの中の青春」で共演したのをきっかけに付き合うようになった、その年上女性ダイアナハイランドと婚約までした仲だった。

実際に撮影を通して俳優同士が付き合うのはよくあることなのだが、特にこの二人が話題になったのは二人の歳の差のせいだったのであろう。
なんと18歳差のカップルで、一緒に出演した「プラスチックの中の青春」でも二人は恋人同士の役ではなく、母と息子の関係で出演していたのである。

・・・このような例の歳の差カップルは当時でも、
フランス人女優ソフィーマルソーが、映画「ラ・ブーム」で共演した父親役の俳優と実生活ではカップルとなり、”歳の差婚”していた例があると思うのだが。

当時、ジョントラボルタは20代になったばかりの青年で、彼女は前の夫と離婚後、子供を引き取って育てる40代のシングルウーマンだったことが、
世間ではダイアナハイランドに対し、何も知らない20代の青年を誘惑したと罵倒する人まで現れたそうだった。

・・・特に”保守的な70年代”だったことが災いし、こんな世相になっていたと思われるね。

二人は、そんな世間の声を気にする素振りもなく公開デートを続け、ついに結婚の約束まで交わし幸せな未来を描いていたのだ。

しかし、トラボルタは一夜にして青天の霹靂のような知らせを聞くことになるのだった。突然彼女が乳がん末期という診断を受けた。信じられない知らせに落ち込んだのも束の間、ジョントラボルタは誠心誠意支えれば奇跡が起こるかもしれないと、撮影時間を除き昼夜問わず愛する女性の傍に寄り添い、手厚く看病したのだった。

その彼の努力も虚しく、ついに彼女が癌宣告を受けてから1年後に亡くなってしまったのだ。この時トラボルタ23歳、ダイアナハイランドを41歳という若さだった。1977年のことである。

彼女が息を引き取ったまさにその瞬間、トラボルタは撮影現場で映画を撮っていた最中だったのだが、この知らせを聞くや否や胸が押しつぶされそうな悲しみに襲われ、どうしても孫お火に撮影をしなければならなかった明るい表情の演技をすることができなかったという悲しいエピソードがある。

スタッフもトラボルタのあまりの悲しみの姿に心を痛め、その日の撮影分は必ず必要な場面でない限りは、代役を使ったり表情が見えないようカメラの位置を変えたりしたのだそうな(ちょっと気持ちの整理をしてきて、と伝えて)

数日間喪に服した後、再び撮影に復帰したのだが愛する女性が一握りの灰になったのを見た彼はもう以前の明るさがなかったらしい。
映画の中で彼女役を務めた女優カレンゴーニーは後のインタビューで、
「いまだにベンチで彼にキスしたシーンを思い出すの。辛そうなジョンのことを見ていられなくて、せめてもの慰めになればとアドリブでキスをしたの」と答え、この当時の彼の痛々しい姿を鮮明に覚えていると話したのだった。

ダイアナハイランドは死後、ようやく生涯夢見てきたエミー賞を受賞することになったのだが、この時トラボルタは彼女の代わりに受賞トロフィーを受け取り、涙ぐみながら彼女への恋しさを吐露したのであった。

「グリース」(1978)立ち直ってミュージカル映画主演の座獲得へ

この時期トラボルタを癒してくれたのは、音楽だった。
まるで「サタデーナイトフィーバー」の主人公がダンスで複雑な思いを忘れ去ったように、音楽は彼に少しの間現実を忘れさせてくれたのだった。

特にミュージカルを沢山観に行ったのだった。
スクリーンの中だけでなく、目の前で俳優たちのダイナミックなダンスを観て、トラボルタは少しずつ昔の情熱を取り戻していったのだった。

そんなある日、彼はこれ以上見ているだけでなく、自分もミュージカル俳優をやってみたいとミュージカル映画のオーディションを受けに行ったのだった。
既に「サタデーナイトフィーバー」でジョントラボルタが観客の心を掴むことができる俳優であることが実証済みなので、製作陣は彼がミュージカル映画を希望するや両手を広げて歓迎してくれたのだった。

そして、遂にトラボルタはミュージカル映画の主演の座を獲得することになるのだが、この映画は「サタデーナイトフィーバー」さえもはるかに凌ぐ作品で、その年の世界興行収入のランキング第1位という大記録を樹立した傑作である。

この映画はまさに今日まで幾度となくリメイクされており、名実ともにクラシックミュージカルとしての王道である地位を手にしているミュージカル「グリース」(1978)なのだった。

高校生の愛と友情、そして成長を描いた作品で、シンプルなストーリーであるにも関わらず、可愛らしい雰囲気、中毒性のある歌で好評を博したのだった。(「グリース」のオリジナルサウンドトラックでは、「Summer Nights」etc)

映画「グリース」が世界中で大ヒット!

この映画は制作費の60倍という収益を上げ大ヒットを記録したのはもちろん、オリジナルサウンドトラックも世界中のチャートを席巻し、飛ぶように売れていたのだった。

この時、共演したヒロイン・オリビアニュートンジョンとは”親友”となり、その先の人生で長い親交を深めていくことになる。

ジョントラボルタは今回、ダンスだけでなく自ら歌までも歌い、ヒロインに息を合わせながら踊る場面では自分で振り付けを作ったりもした。
 このようにジョントラボルタは”ダンスに加え歌まで上手な初々しい俳優”という面白さがあり、彼のダンスを近くで見たいと思う有名人も多くいたのだった。

晩餐会で、英国ダイアナ妃とダンスする!まるで夢のようだ!!

1985年、米国と英国との首脳会談で、当時のチャールズ皇太子と共に訪米していたダイアナ妃が俳優トラボルタを指名して「是非、ホワイトハウスの晩餐会に招待したい」と希望したことから、当時のレーガン大統領が本当に晩餐会にトラボルタを招待したのだった。

・・・驚きである。
”時のヒト”であったイチ俳優を、国賓の御相手に招待するなんて。
ここにもトラボルタの”ダンスの輝く魅力に巻き込まれた女性”がいたとは。

本物のジョントラボルタに会ったダイアナ妃は大喜びで、ファーストレディーのナンシーレーガンを通じてそれとなく「一緒にダンスを踊りたい」と伝えたのであった。
 そして二人がホワイトハウスのロビーで映画「グリース」のオリジナルサウンドトラックのメロディーに合わせてダンスを踊ることになり、この日の写真はショッキングに世界を駆け巡り、世界中で大々的なニュースとなったのだった。

〜この時の出来事が相当イイ思い出になったのか、その後ダイアナ妃はこの日着ていた黒いベルベットドレスを”トラボルタドレス”と呼び、その後も重要な公務の際にはよくこのドレスを着た姿で現れたそうである。

ちなみにこのドレスはダイアナ元妃の死後、チャリティーオークションに掛けられ、なんと4200万円で落札されたそうな。

後日談では、ダイアナ妃はダンスに彼女自身、相当な自信を持っていたそうである。ゆえにダイアナ元妃の秘めたる”女心”としては、憧れのバレエダンサー、ミハエル・バリシニコフと踊りたかったらしいが・・・。

・・・時代の勢いとは、ミハエル・バリシニコフよりも完全にトラボルタに軍配が上がっていたのであろうね。

トラボルタ曰く、
「まさか彼女と踊ってくれと言われるなんて思ってもみなかったよ。でも光栄にも一緒に踊らせていただいたのだから、僕がダンスを上手くリードして彼女には、『一緒にその場を楽しめるようにしよう』って合図を送ったのさ。まるで夢のようなステージだったな。」

・・・トラボルタは、それ以上のロマンスには発展しなかったことを釘を刺す一幕もあったらしく、まるで”おとぎ話のようだった”にとどめておきたかったみたいだった。

トラボルタのダンスに夢中になってしまったのは、ダイアナ元妃だけではなかった

ジョントラボルタのダンスに夢中になった女性は、ダイアナ妃だけではなかった。
トラボルタと一緒に映画を撮影し、彼に夢中になってしまった女性がいたのだ。1989年の「エキスパーツ」という破天荒なスパイ・コメディで共演を果たしたケリー・プレストンという女性である。
彼女は、アーノルドシュワルツネッカー主演の「ツインズ」(1988)のヒロインとしても有名で、80年代当時、息を呑むようなブロンドヘアの美女として、その名を馳せていたのだった。
ジョントラボルタの自信を持ったダンスの魅力とユーモアあふれる姿を見て、ケリーは彼に対して異性として好感を強く持つようになっていったのだった。

しかし、問題は当時彼女は既婚者だったということだ。
離婚の準備中で、結婚生活は破綻した状態だったのだが、それでも既婚者ゆえ一線を越えることはなかったようだ。

それから数年が経ったある時、この二人は他の映画の撮影現場で偶然再会し、この時はもうお互い独身であったため一緒に食事をしながら近づき始めたのだった。トラボルタは病気によって最愛の人を送り出さねばならなかった昔の心の傷をケリーに癒してもらい、暴力夫から離婚したケリーとお互い支え合いながら深い仲になっていったのだった。

1991年、二人はついに祝福の中で結婚式を挙げ、その翌年には息子も誕生し幸せな家庭を築いていった。長男ジェットは、自閉症から16歳の時家族でバハマ滞在中に突然死に見舞われ、深い悲しみに暮れる日々を送ることとなる。

ケリー・プレストンとの間に、2000年に生まれた第2子女エラ・ブルー・トラボルタ、2010年誕生の第3子息ベンジャミンがいる。

トラボルタの俳優キャリアと、”失敗作から学べば”

80年代中頃から低迷するが、タランティーノ監督のバイオレンスアクション「パルプフィクション」(94)で復活し、この映画はカンヌ国際映画祭でパルムドールまで獲得する名作として語り継がれ、ニコラスケイジと共演した「フェイス/オフ」などをヒットさせ第2の全盛期を迎えたのだった。

とある映画の役作りのために25ポンド(約11キロ)の減量をしたことがあり、このシェイプアップがケリーとの性生活に好影響をもたらしたと自信満々に語る彼だが、映画撮影が終わると急激に物凄く太るタイプらしい。覆い被さるとカラダが重くて、と・・・。

・・・最後に、トラボルタのダンス映画以外の演技について言えば、

同世代の演技力のある素晴らしい俳優たちと違って、
トラボルタが俳優として優れるためにはストーリー中、よく練られたキャラクターが必要なんだと思われる。

それが単純だったり、弱い役を与えられると、ただの泥棒とか、そのキャラクターが何であれ、”ジョン・トラボルタ”だけを演じるだけになって、大コケしちゃうのではないか?

しかし、素晴らしい役と監督を与えれば、彼は活きる演技ができることを証明してきた(パルプ・フィクション、サタデー・ナイト・フィーバーなどで)。

そして多くの失敗作を見る限り、
彼が自身のナチュラル・ハゲを受け入れて、変な男物のカツラを被るのをやめてくれること。さらに、意味不明なロシア語訛りの演技をさせないこと、かな。

 

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